2008.09.07 up

桃花(2)

 その夜、守はなかなか寝付く事が出来なかった。自分に宛がわれた2段ベッドの上の段で仰向けに寝転がり瞼を閉じると姉の事を語った時の真田の顔が浮かぶ。


 自身の告白により明らかになった真田の過去は守の想像以上だった。あの男が乗り超えようとしているものはそう簡単に征服できることではない。それどころか、人間が抱える永遠の課題を自らのものとして背負い込んでしまっているのだ。真田をもってしても生涯解くことは出来ないだろうものを。それでも真田は―――途中で投げ出すことなく死ぬまで追い続けるのだ。
 以前、幼い頃の真田が画家を目指していたと聞いた時の事を思い出した。今尚絵画への情熱を失って居ないように見受けられるに何故描かないのかという守の問いに『俺の手では絵は描けない』と言った真田の言外の答えを知ったような気がした。 
(『自分の両手はその為にある』……お前はあの時そう言いたかったのか。だから絵は描けないと。……しかし。)
 果たしてそれでいいのだろうか。姉の死という過去に縛られたままでいるのは、真田自身を自らの目指すものから遠く離れた所に置くものでもあるのではないか。


 真田の絵が見たい。尚更、見たい。


 真田の背負うモノを直接、技術者として或いは科学者として自分も背負う事は出来ない。
 だが、その崇高な志が成就するよう願い、今降り注ぎつつある火の粉をはらって真田が目指す未来を守る事は出来る。傍らで苦しみを分かち持ち、共に喜ぶ事は。
(その末に、あの日……真田が絵の話をした時に見せてくれたあの笑顔で、絵筆を執る様を見たいというのは……過ぎた願いだろうか。)
 ―――いや、未だ遠いであろうその日に想いを馳せる前にやるべき事がある。
 守は目を見開き天井を見つめた。



 第1学年の終業式直前の休日、守はこの1年訓練や演習でよく同じ班になった仲間と共に花見に出かけた。花見と言っても桜にはまだ少し早い。桃の木がある里山へと電車を乗り継ぐ。
 制服姿が珍しいのだろう、訓練学校から離れるにつれて好奇の目が守たちに注がれる。そんな中真田は座席に座っている守たちとは少し離れたドア脇に立ち、座席の背もたれとドアとの間の僅かな壁に体を預けるようにして外を眺めていた。
「よく真田を誘い出せたな。」
 真田の姿をちらりと見た級友が守の耳元で囁いた。
 守の誘いに最初は渋っていた真田だったが『いいじゃないか、たまには。それに2年になればこの面子で顔を合わせるのもあまりなくなるだろう?』と半ば強引に守が連れ出したのだ。守の所から見える真田の横顔がつまらなそうではないのに少し安堵する。


 とある駅で下車すると、駅前で捕まえたタクシーで目的地へと向かう。市街地から離れるにつれ緑が増え、花をつけた桃の木がちらほらと見えるようになってくる。その様子を後部席の窓際で眺めていた真田がしきりに首を傾げる。
「どうした?真田。」
 隣に座った級友が尋ねた。前席の助手席に座った守も肩越しにそっと真田を見る。
「……え?………あ、いや……何でもない。」
 振り返ってそう答えると真田は再び外の風景を凝視した。


 タクシーは20分ほど走り山裾の駐車場に滑り込んだ。守が真っ先にタクシーから降り、開いた後席のドアから真田の腕を取り、引っ張るようにして下ろした。
「―――ここは……!」
 真田が驚くのも無理はない。裏の山には確かに沢山の桃の花が咲いていたが、その斜面は階段状に整地され、墓石が整然と並んでいたのだから。
「お……図らずも良い時間に着いたみたいだな。」
 守の声に真田が振り向くと、黒い喪服の人々が奥の霊園管理所らしきところから丁度出て来るところだった。その中の、初老の男女が守たちを凝視していたが、やがて立ち止まって女性の方が声を発した。
「………志郎。」
 名を呼ばれた真田が守を振り返って睨む。守はそんな真田に笑みを浮かべて静かに言った。
「ここまで来てしまったんだから観念しろ。」
「古代、計ったな!」
「ご両親や亡くなったお姉さんと話して来い。もし今を逃せば、お前は後で絶対に後悔する。」
 守は折りたたんだ封筒を真田の胸ポケットに押し込むと、真田の身体を喪服の人々の方へ向け背中を押した。そして自分は仲間がまだ乗っているタクシーへと駆け込んだ。
「お姉さんへのお花代替わりの、帰りの交通費だ。……逃げるなよ!」
 開けた窓から呆然とする真田に向かってそう叫ぶと、隣の運転手に車を出すように促した。



 バックミラー越しに、両親と思われる男女と向き合う真田が小さく映っている。
「ご協力ありがとうございました。」
「……この近くで桃祭りをやってますから、そちらにつけますね。今なら甘酒や美味しいうどんを振舞っていますよ。」
 このタクシーを拾った級友が乗車前に密かにお願いした、『行き先の話題を出さないで下さい』という奇妙な依頼を何も聞かずに承諾してくれた運転手に礼を言うと、運転手は笑ってそういった。一時は緊張していた車内にようやくホッとした空気が流れる。
「なんとか上手くいったみたいだな。古代。」
「詳しい事情は聞かんが……姉さんの法事をすっぽかすというのは俺もどうかと思うよ。」
「ありがとう。本当に恩に着るよ。」
 今回の件で協力してくれた級友達に守は頭を下げた。
「でも……大丈夫なのか?後で。」
「ん……まぁ……当分口をきいてくれないかもな。」
 守は苦笑いして答えたが。
(……それどころか絶交されてしまうかもなぁ。)
 心の中でそっと溜息をつくと外の風景を眺めた。


 桃祭りの会場の濃い・淡い様々な桃色をした花の下で差し出されたうどんを有り難く頂戴し甘酒に舌鼓を打ち、しばらく香りと共に花を眺めた後、更に近くの寺社や旧跡を散策してから訓練学校に帰ると、真田は既に戻っていた。
「真田、ちゃんと法事には出たんだろうな?」
 学生舎の廊下ですれ違いざまに問いかけにも真田はちらりとも守を見ない。表情一つ変えることなくそのままスタスタと歩いていってしまった。
(相当怒っているな。)
 守は溜息をまた一つついた。
 それからというもの、真田は守と一言も口をきかないどころか目すら合わさない。
(仕方ないか。真田の内々の事情に踏み込みすぎた事は確かだ。)
 この事態は守が真田を何としても姉の法事に連れ出そうと思った時から予想していたことではあった。
 やった事のケジメはきちっとつけよう。その為にも一言だけでもいいから話したい――機会を窺がう守に『その時』がやってきたのは三日後だった。


 4年生が卒業しどこかのんびりした空気の流れる夕食時、食堂で席を探していた守は真田も同じように席を探しているのに気が付いた。
「隣、座るぞ。」
 見つけた空き席に座った真田に有無を言わせず隣の席を占める。真田はそんな守を一瞥すると食べ始めた。守も黙ってと食べ始める。
 食事も半分食べ終わった頃ようやく守が口を開いた。
「……真田、少しだけ俺の話を聞いてくれ。」
 真田は一瞬食事の手を止めたが再び黙々と食べる。
「この間、お前をだまして連れ出したことは謝る。それからお前の家の事情に土足で踏み込んだことも。本当に悪かった。だが――。」
 守も真田を見ることなく、食器に視線を落としたまま話す。
「やったこと自体は俺は今でも正しいと思っている。もしあの日行かなかったら……何度も言うようだが、お前は後で後悔する。絶対に。俺は今でもそう思っている。だから今回のことでこのままお前に絶交されても甘んじて受け入れる。話はそれだけだ。」
 食べ終わった守が立ち上がった時。
「――ああ、やっぱりダメだ。」
 真田が溜息をついた。不思議そうな顔をして見おろす守に
「座れよ。」
と促す。見ると真田が歯を見せて笑っている。
「慣れない事はするもんじゃあないな。」
「真田……?」
「まあ、いいから座れ。」
 真田にもう一度促されて守はようやく一度上げた腰を下ろした。


 テーブルの上で手を組んだ真田がぽつりぽつりと話し出す。
「法事にはちゃんと列席した。両親とはろくに話はしなかったし、法事の後の精進落しは辞退して帰ってきたが……短い間でも墓前で姉さんと向かい合えて、良かった。―――もしお前達が背中を押してくれなかったら……俺だけは絶対行けなかった。」
 そこで真田がくすっと笑う。
「だがな、お前に上手く乗せられたのが何となく面白くなくてな。暫く怒っているフリをしてやろうと思ったんだ。別に人と話さなくても俺は平気だったはずのに……その気もないのにあえて無視するというのがこんなにキツイとは思わなかったよ。」
「じゃあお前、俺の事を怒っては………。」
「ああ。怒ってなんていないさ。」
 真田の言葉を聴いた守は拍子抜けするのと同時に軽い怒りがこみ上げてきた。
「お前――!いくら覚悟していたとはいえ、本当にお前に絶交されたらと俺は!」
 肩を掴み揺する守に真田が苦笑いする。
「すまん。これは俺が悪かった。もう二度としない。」
「―――本当に怒っていないんだな?。」
 守は真田の肩を揺する手を止めて真顔で聞く。
「ああ、怒るどころか………お前には本当に感謝している。ありがとう。」
 真田がこちらも真顔で答えを返すのに、守はようやく友を失わずに済んだ安堵の息を漏らした。




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